日本のスラッシュ事情 後編
CASBAHが名作デモ「INFINITE PAIN」をリリースした1987年、名古屋のOUTRAGEが4曲入りの12"シングル「OUTRAGE」をリリースする。
自分が初めてOUTRAGEを見たのは新宿ロフトでのCASBAHのライヴで前座として出ていた時で、そのライヴの帰りには上記した12"シングルのチラシをもらい、その時は正直「こんな今日初めて名前を知ったぐらいのバンドがいきなりレコード出すんだ。それよりもCASBAHを出してくれよ」と思ったものだ。
名古屋出身のOUTRAGEは当時東京ではまださほど名前が知れ渡るような存在ではなかった。
が、この12"シングルはリリース後すぐさま話題となり、雑誌ではMETALLICAの再来的な扱いで結構アッと言う間に話題のバンドとなり、翌1988年には早くもポリドールより1stアルバム「BLACK CLOUDS」でメジャーデビューを果たした。
この時点で以前にも書いたようにシーンを先導してきたCASBAH、UNITED、JURASSIC JADEはメジャーデビューはしておらず、唯一DOOMだけがメジャーデビューしていたが、その音楽性はスラッシュと言うにはかなりアヴァンギャルドなものになっていた。
OUTRAGEは上記したシーンを先導したバンド達を瞬く間に抜き去りシーンのトップへのし上がったという印象があったし、実際にメジャーデビューした事で人気も動員も他のバンドよりは頭一つ抜けた存在になった。
演奏力も確かなバンドであったが、個人的にはOUTRAGEが他のバンドと決定的に違ったのはヴォーカルの歌唱力にあったと思う。
スラッシュ系は後のデスメタル系もそうであったように、がなると言うかスクリームと言うか叫びに近い歌い方が主流だったし、勿論それがカッコいい部分でもあったのだが、スラッシュメタル・ファン以外にとってはそこが一番受け入れられない要素でもあった。
しかしOUTRAGEは単純に歌の巧さという点では他のバンドとは違うものがあったし、METALLICAとよく比較されたのはMETALLICAもそうであったようにヴォーカルの歌の巧さが特徴だったからではないかと思っている。
個人的な意見ではそれこそがOUTRAGEがいち早くメジャーデビューを出来た要因ではなかったかと思うし、橋本直樹復帰後のOUTRAGEの見事な復活を見てもやはり彼の存在はバンドにとって重要な要素であったように感じる。
FAR EAST THRASH ARMY- THRASH LIVE IN SAVEGERY
FAR EAST THRASH ARMY Ⅱ- BURNING INSIDE
FAR EAST THRASH ARMY Ⅲ- FREE STYLE
GENOA / THE END WITH BEGIN
80年代当時スラッシュ系の出演するライヴハウスと言えば東京では神楽坂のEXPLOSIONか目黒鹿鳴館がほとんどで(あとはたま~に国分寺モルガナとか目黒LIVE STATIONとか、CASBAHが新宿ロフトに出ていたりとか。
昔RAGING FURYがEXOPLOSIONに出演した翌日にモルガナでもライヴをやった時、俺を含めて客が5人ぐらいなんてライヴもあったな….)、そんな時期に千葉出身のGENOA(ジェノアではなくゲノアと読む)が先頭に立ち新たなスラッシュのシリーズ・ギグをハードコア系の主戦場でもあった新宿アンティノックで開始した(毎月第4土曜日開催だったかな…。確か1988~9年頃スタートしたと思う)。
GENOAはそれ以前にクラウン参加のVICEから「WHAT A WONDERFUL LIFE, HA」でレコードデビューを果たしていたが、その際にレーベルが「スケートロックのニューヒーロー」として当時のスケボーブームに便乗するような売り出し方をしたことに強く反発していて、当時のライヴでも「俺たちはスケボーなんてやらねぇ」とMCしていた記憶がある。
GENOAを初めて見たのはいつだったか正確には覚えていないが(新宿のツバキハウスでCASBAHと一緒に出ていた時だったかな…いやもっと前だったかな? でもEXPLOSIONでGENOAを見た記憶はないな)、CASBAHが一年間の活動休止から活動再開した時の新宿ロフトでのライヴではGENOAがオープニングを務めたのだが、その時のGENOAのライヴが今でも記憶に鮮明に残っている凄まじいライヴで完全にCASBAHを上回る衝撃で本当に震えるほどの感動を覚えた。
当時CASBAHこそが最高だと信じていた自分にとってはそのCASBAHを上回る衝撃を受けたことは本当に驚きでもあり感動でもあった。
この時のライヴは勿論GENOAが先でその後に登場したのがCASBAHだったが、GENOAで相当な衝撃を受けた直後に見たCASBAHのライヴは「あれっ?」という印象だった。
CASBAHの一年間のブランクも関係していたと思うが、その時のバンドの勢いは完全にGENOAが上回っていたように感じた(当時友人がウォークマンで録音したこの日のライヴ音源はその当時の自分のウォークマンから数ヶ月離れることはなかった)。
GENOAはスラッシュを自認していたが、今となって聞くとそのサウンドはSLAYER、METALLICA等のリフ主体のスラッシュメタルの王道よりも、どちらかと言えばクロスオーヴァー/ハードコアに近い音楽性だったように思うし、メタル以外の要素もかなり多く取り入れていたバンドでスラッシュメタルとしてはかなり独創的な音楽性だった(ライヴではMISFITSのカヴァーも演奏されてたし、U2、THE DOORS、ROLLING STONES等のカヴァーが収録されたソノシートもリリースされてた。
中でもTHE DOORSの"Light My Fire"のカヴァーはライヴでは定番で大盛り上がりになる曲だった)。
今思い出しても、とにかくそのスピードは半端ないバンドで、S.O.Bの安江君を見るよりも先にGENOAを見ていた自分にとっては、勿論当時はブラストビートなんて名称はなかったが、人生初の生で見たブラスト・ドラマーはGENOAのドラムNobuさんだったと思う(ツーバスもまた恐ろしく速かった)。
GENOAを先頭に開始されたシリーズ・ギグは「THRASH LIVE IN SAVAGERY」と題され、タイトルにTHRASHと入っているが、音楽的には多彩で、実際にハードコア系のバンドも出演していた(FINAL COUNTとかBASTARDとかが出ていた記憶がある)。
自分も「THRASH LIVE IN SAVAGERY」の第一回を実際に見ているのだが、その時の出演バンドはGENOAの他にDISARM(後にDRASTIC GUNSMITHに改名)、HELLCHILD(この時のヴォーカルは後にバンドの顔にもなる現SWARRRMのTsukasaではなくオリジナルメンバーの細野)、AIR RAID(ヴォーカルは後のTHE GAIAのヴォーカルGanaさん。この時点ではまだGanaとは名乗っていなかった)等のそれまでEXPLOSIONを主戦場としていたバンド達が多く出演していた(その時はSHELLSHOCKも出ていた気もするし、RAIGING FURYも出ていたような….いやVIETNAMだったかな…VETNAMは2回目に出てたんだったけかな…5バンドが出演していたはずだけど、完全には思い出せない)。
この「THRASH LIVE IN SAVAGERY」は、当時は出演の敷居が高かった目黒鹿鳴館には出演したくてもできないバンド達にとっては貴重な場となったし、若手バンドにとってはまずはTHRASH LIVE IN SAVAGERYが目指すべき場所となっていった。
またライヴの開催の度にHEEL OF THRASH(通称ヒースラ)というフリーペーパーを配布したりと色々な意味で積極的な動きをしていた(どういう経緯だったかは忘れたけど、最後の頃にはこのヒースラをコピーしてホッチキスどめしてライヴ当日にアンティノックへ届けるという作業を俺がやっていたことがあった。
AIR RAIDの杉山さんに頼まれたんだっけかな…当時のコピー機は今よりも全然性能が悪くて大量にコピーしてるとすぐにインクが薄くなってしまうんで、何件もコンビニを廻ったのを覚えている)。
またGENOAの働きかけもありオムニバス「FAR EAST THRASH ARMY- THRASH LIVE IN SAVAGERY」をパンク系のレーベルだったCAPTAIN RECORDSより1989年にリリース。
収録されていたのはGENOA、AIR RAID、VIETNAM、DRASTIC GUNSMITH、SHELLSHOCK。
このオムニバスはシリーズ化され、第二弾の「FAR EAST THRASH ARMY Ⅱ- BURNING INSIDE」は1990年にリリースされ、収録されていたのはRAIGING FURY、LAWSHED(この作品でギターを担当していたのは後のCOCOBAT、現PULLING TEETHの鈴木さん)、CASSANDRA、EXCROW(ドラムを担当していたのは後にCOCOBATのドラムにもなったKame)、DES-POZ。
第三弾の「FAR EAST THRASH ARMY Ⅲ- FREE STYLE」は1992年にリリースされ、収録されていたのはSCRAP TAMBOURIN、SCAMP(ドラムは現DIE YOU BASTARDの辰嶋さん)、THE WRECHED(ドラムは元GASTUNKのMatsumuraさん、ヴォーカルは元COMES、VIRGIN ROCKSのChitoseさん)、JESUS SAVE(ギターは現SLIGHT SLAPPERSのSeiji)、PONY THE KLUX(ヴォーカルは元666のギター故大山氏)、HELLCHILD(この時点ではヴォーカルは既にTsukasa)。
またGENOAはレーベルSTRANGE RECORDSを主宰しGENOAをはじめ多くのバンドのソノシートやCD等をリリースし、シーンの活性化に尽力していた(今では人気のオルタナ・バンドCOALTAR OF THE DEEPERSの初のリリースはSTRANGE RECORDSからリリースされた「WHITE」EPだった。
COALTAR OF THE DEEPERS結成前にギターのNarasakiは臨終懺悔というハードコア・バンドで活動していて、その臨終懺悔はTHRASH LIVE IN SAVAGERYに出演していたような気がするが、これも記憶は曖昧です)。
こうしてGENOAを中心にした一つのシーンが確立されていたが、GENOAは1990年にリリースしたアルバム「THE END WITH BEGIN」(超超名盤)を最後にヴォーカルの富田さん、ベースの江原さんが脱退。
その後GENOAは新メンバー(ヴォーカルは元コンチネンタル・キッズのアキラさん)を加え活動を継続させたが、その新しい編成で作品をリリースすることはなかった。
その後もGENOAが活動休止状態の時も他のバンドが仕切る形でTHRASH LIVE IN SAVAGERYは継続して開催されていたが、それも次第に終息へ向かってしまった(最後の開催は恐らく1993年頃だったと思うが、正確に何年だったのかはもう思い出せない)。
話はちょっとそれてしまうし前後してしまうが、THRASH LIVE IN SAVAGERYが開始される前は自分もよくEXPLOSIONにライヴを見に行ってたが(その頃よく見に行っていたのがHELLCHILDとかAIR RAIDとかDISARMとか)、その時期にEXPLOSIONによく出演していたバンドでEXPLOSIONからリリースされたオムニバス・ライヴ・アルバム「SKULL SMASH」にも収録された千葉のKILL ROYというバンドがかなり好きなバンドだった。
単独音源が残されていないのが残念だが、ハードコア要素もあるスラッシュという感じで当時EXPLOSIONでよく見ていたバンドの中でもかなり高い演奏力のバンドだったと記憶している。
KILL ROYはその後THRASH LIVE IN SAVAGERYが開始される前に解散していまいヴォーカル/ギターの山内さんはAIR RAIDにギターとして加入。
ドラムのヒデキさんはDISARMから改名したばかりのDRASTIC GUNSMITHに加入。
そしてギターのユーさんとベースのノリが結成したのが後の日本のインディーズ・シーンに大きな爪痕を残した、あのNUKEY PIKES。
NUKEY PIKESのヴォーカルのミッちゃんは当時よくKILL ROYのライヴに来ていた(ローディーみたいな感じだったのかな?)。
NUKEY PIKESの活動初期にはTHRASH LIVE IN SAVAGERYにも出演していた記憶があるけど、これも記憶は曖昧です。
UNITED / BLOODY BUT UNBOWED
WAR PIGS / STAY COOL
SACRIFICE / TOTAL STEEL
LAWSHED / LET US TALK FALSEY
80年代後半OUTRGE、DOOMを除いてはなかなかアルバムをリリース出来ない状況だった日本のスラッシュメタル・シーンだったが、1990年に新たなレーベルが設立された。
それがHOWLING BULL RECORDS(1990年スタートだから今年で25周年)。
オーナーはDEMENTIAのヴォーカルだったGeess(小杉茂氏)。
この時点でDEMENTIAはすでに解散しておりDEMENTIAのギターだったHarryは既にUNITEDに加入していた。
後にGeessから聞いたところでは、当時彼はANTHRAXやS.O.DをリリースしていたアメリカのMEGAFORCEのようなレーベルを作りたかったそうだし、UNITEDのアルバムをリリースするために設立したレーベルという思いもあったようである。
80年代からシーンをリードしてきた存在だったUNITEDだが激しいメンバーチェンジ(この時点で既にオリジナル・メンバーは不在だったがベースの横さんがリーダーとなりバンドを牽引していた)等もあり、なかなかアルバムのリリースには辿り着かなかったが、遂にようやく1stアルバムのリリースに辿り着いた。
前回書いたように80年代日本にはEXPLOSIONぐらいしかスラッシュ系のアルバムをリリースするレーベルはなかったが、HOLWLING BULLは設立当初はスラッシュ専門レーベルと言える立ち位置でEXPLOSIONと入れ替わるようにシーンの重要レーベルとなっていった。
HOWLING BULLは雑誌への露出も積極的でメジャーデビューしていたOUTRAGE程ではないにしろHOWLING BULLからリリースされたバンドの注目度は高かった。
またHOWLING BULLはリリースしたバンドのマネージメントとしての立場もあった。
リリース第一弾は勿論UNITEDの1stアルバム「BLOODY BUT UNBOWED」。
更に元JURASSIC JADEのメンバーによるWAR PIGSの1stアルバム「STAY COOL」、EXPLOSIONから1stアルバムをリリースしていたSACRIFICEの2ndアルバム「TOTAL STEEL」、若手バンドLAWSHEDの1stアルバム「LET US TALK FALSEY」(このアルバムのレコーディング前に鈴木さんは脱退しこの作品でギターを担当したのは元YELLOW BLOODの手島)、こちらもEXPLOSIONから1stアルバムをリリースし、その後メンバーチェンジを行ったSHELLSHOCKの2ndアルバム「PROTEST AND RESISTANCE」等のアルバムを次々にリリースした。
またHOWLING BULL所属バンド達とOUTRAGEが一堂に会したイベント「METALLIZATION」を川崎CLUB CITTAで定期的に行い、これがシーンの活性化につながっていった(METALLIZATIONの最後の開催の時には解散前のEXODUSが出演していた)。
またUNITEDはツアーを積極的に行いそのツアーには若手バンドを帯同させる事が多く(LAWSHEDの初の全国ツアーもUNITEDとのツアー)、地方公演では各地の若手バンドを出演させ、その中から気に入ったバンド達を東京の鹿鳴館に集めてライヴを行うなどし、こちらもシーンの活性化に繋がっていった(札幌のNIGAROBOの初の東京でのライヴもそれだった)。
鹿鳴館に出演したことのなかった若手バンド達にとっては以前からもそうであったがより鹿鳴館に出演することが強い憧れになっていった(ちなみに後のデスメタル・シーンの中心的存在となったHELLCHILDの初めての鹿鳴館の出演もHOWLING BULL主催のSACRIFICEの前座としての出演だった)。
1991年にはLAWSHEDを脱退した鈴木さん、それ以前にはMINO-5というハードコア・バンドで活動していたTake-Shit/坂本君、元仙台のハードコア・バンド、DISARRAYのヴォーカルだったRyuji君(現BB)らによりCOCOBATが結成され、翌1991年には1stアルバム「COCOBAT CRUNCH」でデビュー。
COCOBATは完全にスラッシュメタルのシーンにいたというわけではなく、幅広い音楽性であり様々なジャンルと交流する存在ではあったが、鈴木さんの作り出すザクザクのリフはやはりスラッシュメタル由来のものでスラッシュメタルのファンにも大いに受け入れられたし当時はハウリングブル所属バンドと共に鹿鳴館にも出演していた。
90年代に入り海外ではスラッシュメタル・シーンは減退し、それに変わってデスメタルがシーンを席巻していった。
その頃日本には大阪のBELETH、名古屋のDEATHPEED(ヴォーカルは現UNHOLY GRAVEの小松君)ぐらいしかデスメタルと言える音楽性でライヴ活動が活発だったバンドはいなく(東京にもNECROPHILE、MESSIAH DEATH等のデスメタル・バンドは存在したがライヴ活動はあまり行われていなかった)、海外でのデスメタルの盛り上がりと当時に日本でもデスメタルが盛り上がるという事はなく日本ではやや後になって盛り上がるようになっていった。
大阪のVIETAMや千葉のEXCROWは今となって聞いてみるとそのドスの効きまくったヴォーカルはデスメタルにも通じるものがあるし、HELLCHILDも80年代から存在していたが、彼らの原点はやはりスラッシュにあった。
こうやって日本では海外の盛り上がりとはやや時間差がありながらも確実にシーンが存在していた。
今思い出しても当時の日本のスラッシュ・シーンは海外のバンド達と比べてもかなり独特な音楽性のバンドが多かったように思う(特にTHRASH LIVE IN SAVAGERYにはそう思えるバンドが多かった記憶がある)。
実際にNUKEY PIKESやCOCOBATのように日本のインディーズ・シーンにその名を刻んだバンド達(COCOBATは勿論今も現役)のメンバーも(全員ではないが)ルーツを辿ればこのスラッシュシーンに行き着く事実を見てもかなり独創的な日本独自のシーンがあった事を確認出来る。
自分にとっては10代後半から20代前半の最も多感だった時期で、この時期に実体験した日本のスラッシュ・シーンは決して忘れる事のできないものとして今でも記憶にはっきりと刻まれている。